詩人・歌手・画家・競輪愛好家・エッセイスト・俳優・酒豪・表現者。
真に自立して生きることが忘れられがちな現代にあって、無頼詩人のロマンを奇蹟的に体現するアーティスト。
少年時代・・・中原中也との出会い
1950年2月16日、秋田県山本郡八竜村(現・三種町)生まれ。本名・及位典司(のぞき・てんじ)。
河口に八郎潟が待ち受ける三種川の自然に囲まれながら、祖父母の手によって育てられた。
鵜川中学校(現・八竜中学校)時代は勉強嫌いで文学にも無縁だったが、図書館で偶然目にした中原中也の詩『骨』に衝撃を受け、自身も詩作を開始する。
中学卒業後、バスケットボールの名門、能代工業高校へ進学、バスケットボール部のマネージャーを務めながら太宰治や小林秀雄などの文学書を乱読する。
一時、能代市内の中学校でバスケットボール部のコーチを務めており、のちに日本代表チームの一員となる選手も育てた。
「友川かずき」の誕生・・・1970年代
1970年代初め、日本では、ボブディラン等の影響でフォークソングが一大ムーブメントとなっていた。
友川も影響を受け自身もアコースティック・ギターを独習し、それまで書きためてきた詩に曲をつけて歌い始める。1975年ファーストアルバム『やっと一枚目』をリリース、念願のアルバムデビューを果たす。
その後、日本の反体制ロックバンド、頭脳警察のメンバーと知り合う。特にパーカッショニストの石塚俊明と意気投合し、以後彼は重要な音楽的パートナーとなる。
1970年代後半には、劇団と深くかかわるようになり、劇中歌を担当したばかりでなく、俳優として舞台に上ることもあったという。また、さらなる表現活動の場を求め、絵画にのめり込んだ時期でもあった。
「画家・友川カズキ」の誕生
1985年、東京にて、初の個展を開く。美術評論家・ヨシダ・ヨシエに認められた結果だった。
以後、全国各地で精力的に個展を開き、中上健次(作家)、洲之内徹(画商・批評家)、福島泰樹(歌人)ら多数の芸術家、文化人から惜しみない賛辞を浴びることになる。
PSFレコードへ
1993年、前衛音楽やサイケデリック・ロック等の代表的なレーベル、PSFレコードから『花々の過失』をリリースすると、現代音楽の作曲家・三枝成彰に絶賛されたことも手伝ってか、それまでの廃盤が嘘のようにまたたく間に再プレスを記録。以後、同レーベルから着実にCDをリリースしていくことになる。
特にフリー・ジャズのミュージシャンとのコラボレーション『まぼろしと遊ぶ』(1994年発表)は新境地を開いた作品として注目された。
また、音楽以外の代表的な作品に詩集『地の独奏』、絵本『青空』(文・立松和平/絵・友川かずき)、エッセイ集『天穴の風』などがある。
映画音楽、そして海外公演へと活動の幅を広げる
2004年には、幕末時代の殺し屋・岡田以蔵をモチーフに、過去・未来を通じ、時間を超越した殺戮を繰り広げる様を描く三池崇史監督のカルト映画『IZO』にも出演。主人公の内面を象徴する歌手役として、劇中で5曲を歌う。また、2005年には若松孝二監督の『17歳の風景』の音楽を担当するなど映画音楽の分野にも活動の幅を広げている。
音楽活動もPSFレコードに移籍以来、1年に1作の割合でコンスタントにCDをリリース。
2000年代からは海外でもその評判が高まり、スコットランド、イングランド、ベルギー、スイス、フランス、ドイツ、ウクライナ、アメリカ、韓国、中国、台湾など各地で公演をおこなう。
2009年にフランス人映像作家ヴィンセント・ムーンによる友川カズキのドキュメンタリー映画「花々の過失」が製作され、同年この映画はコペンハーゲン国際ドキュメンタリー映画祭の「音と映像部門」で最優秀賞を受賞し、友川の名がヨーロッパのアート人の間で知られることになる。この映画は2010年日本でも劇場公開された。
新たなる傑作たち
2014年、アルバム『復讐バーボン』(モデストラウンチ)をリリース。福島第一原子力発電所事故を受け、新たに書かれた詩を添え再録音された「家出青年」を含み、才気溢れる共演者たちのサポートを得て完成させた同作は、多方面から「傑作」と評された。
2015年には、40数年に及ぶ活動を振り返り、「現在形」の表現者/生活者としてのスタンスを披瀝した自伝的エッセイ『友川カズキ独白録』(白水社)を刊行。さらに2019年、過去のエッセイや談話を集成した『一人盆踊り』(ちくま文庫)を上梓し、いずれも広く話題を集める。
そして2020年、撮影から10年を経て、佐々木育野監督によるドキュメンタリー映画『どこへ出しても恥かしい人』が劇場公開された。
最新オリジナルアルバムは『光るクレヨン』(モデストラウンチ/2016年)。
PSFレコード時代の楽曲を集めたベスト盤に『先行一車 P.S.F. RECORDS YEARS 1993-2010』(モデストラウンチ/2018年)がある。
彼の作品は特に芸術家や文化人、マニアの間で人気が高いが、そのことは一般の人々には受け入れ難いということを意味していない。それは表現者としての潔癖な生き方が現象として現れた皮肉な結果なのであり、その作品が歳を重ねるごとに美しく透明に洗練されていくさまは、今後ますます多くの人々に自分が自分であり続けるための勇気を与えていくにちがいない。
友川かずきのうたがCDで出るという。なんと喜ばしいことだろう。
普通、歌は世につれ世は歌につれという。サルトルは、作家は時代を抱きしめなければならないといった。表現する者はどこかで世の中と寝なければならないのだ。だが、友川は一度も世の中と寝たことがない。
東北はどうして日本人の魂のふるさとであるがごとくあるのか、ありとある日本人起源説は南かせいぜい西北を指しているのに、なぜか東北の地は日本人になつかしい。そして東北の生んだ詩人たちはなつかしさを求めて実はそのなつかしさを日本の中央といわれるところへ運んできた。私の友人に限っていえば、寺山修司、三上寛、長谷部日出雄、いずれもそのなつかしさをキーとして、テレながら世の中と寝た。ひとり友川かずきは寝ようとしない。
限りない激しさと限りない優しさが友川のうたの中に同居している。限りなく繊細な詩のことばと限りなく露骨な日常のことばが友川のうたの中に同居している。東北の詩人たちは限りなく世の中に拗ねてみせるが、また時に限りなく甘えてみせる。友川にはその両方がない。友川はテレ笑いをするということがない。そのことが世の中をとまどわせる。友川のあの大きな目で見つめられ問いかけられたとき人々がとまどうように世の中はとまどう。そうだ、あれは目というべきものではない。目玉なのである。誰しもがとまどう。ルドンの目玉にとまどうように。
だからといって一本気なのではない。一本気なのは三上寛だ。長谷部日出雄ももちろんである。寺山だって結局は一本気だった。真っ白な絹のマフラーを首にまいて大船撮影所にあらわれた日から、カンヌで私に「商業映画を撮っちゃいけないぞ」などと説教する日まで、すくなくとも私の前では終始一本気だった。友川はむしろムラ気である。彼の才能が一本気にさせないのである。友川はうたであり、うたが人間になったのが友川であるけれど、彼はうたにすら時として執着していないのではないか。画をかくことも、料理をつくることも、酒をのむことも、芝居にかかわってガヤガヤやることも、うたと同じくらい大事であり、うたと同じくらいいい加減なのだ。ただただ彼は愛しているのであり、愛していることの効果や結果は問題でないのだ。
友川かずきのうたが胸にしみいるとしたら、君は幸せだと思え。君にもまだ無償の愛に感応する心が残っていたのだ。無償の愛がまだこの人の世に存在すること、それこそが友川が身をもってあがない、あかししてくれたことなのだ。
友川よ、久しく会わないが、元気か。美貌にかげりはないか。酒量は落ちないか。私は君がよき友人たちにめぐまれていることを知っている。その数は世の中の人の数よりは少ないが、1人の男が持つ水準をこえることはるかであることを知っている。 (『初期傑作集』(1989)寄稿文より引用)
大島 渚 (映画監督)
表現者には、絶頂期というものがある。時代のある地点に輝ける作品を残したとしても、いつかは老醜をさらす宿命にある。ところが例外的に、衰退という言葉とは無縁の作家がいる。ある高名な映画監督に「代表作は?」と訊ねると、決まって「次回作」という言葉が返ってきたそうだ。常に最高傑作を生み続けているという自信がそう答えさせているのだ。
友川かずきもまた、そうよう稀有な作家だ。新しいCDを聞く度に、新境地を拓いた傑作だと唸らされる。以前発表した曲であっても、あたかも新作のような鮮度で歌い切ってしまうのだ。退歩を知らぬ歌手だと思う。天才的である。天才というと早熟をイメージする。だがそれは、一面でしかない。真の天才とは、唯一無二の独自のスタイルを保有している。天才の精神は、死の瞬間まで老いない。そして、天才の作品は、永遠の命を与えられる。友川かずきはそういう人間であり、そういう歌がこのCDに収められている。
初めて友川かずきの歌に接する者は、その圧倒的な歌唱力に平伏する。そして、その歌詞の秀逸さに胸を打たれる。しかし、それはただの外面でしかない。心を澄ませてじっと耳を傾けば、友川かずきの歌は実に穏やかに感じられるはずだ。滔々と流れる地下水脈のような静謐かさこそが、友川かずきの基調だと私は感じている。
私事で恐縮だが、私が書いた脚本に俳優として出演していただいたのが友川さんとの出会いだ。同郷ということもあってか、私はギャンブルと酒を一緒させていただく関係になった。競馬、競艇、競輪からパチンコに至るまで、博奕を始めた当初、私と友川さんは絶好調だった。競馬で勝ち、競輪で大勝した。「歌なんか歌ってる場合じゃないよね」と友川さんが言い、「苦労ってものがどこかで売ってたら、二つ買って二人で分けましょう」と私が答えた。博奕の中でも、競輪のおもしろさは抜群だった。友川さんはたちまち競輪の虜になった。しかし、おごれる者は久しからず。やがて、ツキに見放される日々が訪れた。その日から、友川さんの競輪の猛勉強が始まった。狙っている選手を追いかけて、現金を懐に単身九州の競輪場に飛行機で乗り込んだこともあった。話を聞いて、爆弾を抱えて適地に赴くテロリストのようだと思った。友川さんは、起きている時間の全てを競輪に注ぎ込んだ。受験勉強なら間違いなく東大に合格していたと思わせるほどの集中力だった。そして、それは見事に結実した。競輪中継の解説予想で全四レースの全てを的中させたのだ。しかも、そのうち三レースは五千円台の大穴。競輪のテレビ解説史上空前絶後の快挙である。間もなく、友川さんは競輪の専門書を上梓し、多くのファンを獲得して競輪会の著名人となった。普通の人間なら数十年かかる境地へ、たった十分の一の歳月で到達してしまったのだ。そんな姿を目の当たりにして、友川さんの多才ぶりが改めて納得できた。歌手であり、画家であり、詩人であり、時として俳優・・・・。これらの背景には、おそらく、濃密な時間があったからだ。
友川さんは、常に何かを犠牲にして生きている。犠牲となるのは肉体であったり、魂であったり、金銭であったり様々なのだが、いつもリスキーな道を選択している。犠牲という言葉より、賭けているという言い方が正確かも知れない。不器用だからではない。安全の場所でのうのうとぬるま湯に浸かっているのを潔しとしないからだ。もっと楽すればいいのにと、傍目に感じるが、これは余計なお世話というものだ。こういう姿勢が、友川さんを支えているのだ。
競輪場でウン十万を一瞬にして溶かし、レースが終わってもしばらく立ち上がれない友川さん。飯場で働く友川さん。函館の最終レースで大金を的中させ万歳をする友川さん。酔って喧嘩腰になる友川さん。パチスロなんぞ詐欺だと怒りながらも、台に座ってしまう友川さん・・・・。全ての友川さんが、<友川かずき>に永遠のエネルギーを与えている。いかなる者であれ、後塵を拝することを嫌い、一生涯徹底先行。歯を食いしばり、徒手空挙で風に立ち向かう<友川かずき>は、まさに肉弾である。
そして今回、この『ぜい肉な朝』が誕生した。産まれたてで湯気が立ち昇っているようなアルバムだ。切れば血が流れる。うっかりすれば、こっちが切られてしまう。油断は禁物と心の中で繰り返しながら、CDケースから取り出す。<友川かずき>がこんな小さな円盤に詰まっているのが不思議だ。楕円だったら競輪のバンクだったのにと、一瞬馬鹿なことを考えながらプレイヤーにCDをセットする。緊張の数秒を息を殺して待つ。あと一秒で、<友川かずき>が、私の家にやってくる・・・。 (『ぜい肉な朝』(1996)寄稿文より引用)
加藤 正人(脚本家)
届いている。「世界」の地べたの底の底に届いて、コップ酒しているのが友川さんだ。「私はそもそも品行方正ではありませんッ!」(「いくつになっても遊びたい」)と、泥酔者が起立したような声で叫び歌う友川さんは、本当に、私の知る限り、品行方正ではない。秋田の狂い犬と称された男と初めて会った時、ビールジョッキにウィスキーを注いで呑んでいて、「藤沢さんッ、人間辞めねば駄目だねえ。きっちり殺さなければ駄目だねえ」と大きな猛禽類の目で見据えつつ爽快な白い歯を見せて笑った。狂気と暴力とデカダンス。だが、夢のある奇麗な瞳だった。この世にはない、というか、地べたの底から世間の水面裡に映る模様の、遥かむこうを見ている目だと思った。そして、独り、という悲しみや修羅を抱えている目でもあった。
男に魅かれて、「友川さん、友川さん」と、当時、青二才編集者だった私はついて回ったが、「まずは呑まねば駄目だねえ」と朝まで呑まされたのを思い出す。「いや仕事が・・・・」といえば、「会社?会社なんて潰せばいいんですよ。なんも問題ない」とコップ酒がくる。そのとおりだ、と私もコップ酒して酔っぱらい、「ろくでなし」となってしまったのである。友川さんの歌を聴くたび、不良になっていく自分がいる。不良になって優しくなっていく・・・・。
悪い人に会ってしまった。 (『空のさかな』(1999)寄稿文より引用)
藤沢 周(小説家)